遠心力で馬群が外へ大きく膨らむ、中京特有の4コーナー。
スタンドの歓声が、鼓膜を破らんばかりの轟音へと変わっていく。
「ハァッ、ハァッ!なんだよこの坂ぁ!脚が重いぞ!」
先頭を爆走していたメイクワンズデイの息が、突然荒く乱れ始める。
前半で刻んだ10.7という無茶な加速が、見えない鎖となって彼を縛り付けていた。
「チッ、だから言っただろ。頭空っぽのイノシシ野郎が」
真しろにピタリとつけていたエイシンディードが、ニヤリと牙を剥く。
「うるせェ!俺様は山の王だぞ!こんな坂くらい気合で……!」
「そのまま底まで沈んでろォ!俺が風穴を開けてやる!」
エイシンディードは力強く芝を蹴り、苦しむ山の王をあっさりと抜き去った。
(この坂ぁ……!俺の脚を止める気か?舐めんじゃねぇぞ、ぶっ潰す!)
風の刃を纏うかのように、彼は荒々しくトップギアへと叩き込む。
その時、大外から凄まじい摩擦音とともに、黄色の閃光が急接近してきた。
「……霹靂一閃」
白目を剥いたままのフクチャンショウが、地を這うような低い姿勢で並びかける。
「あァ!?なんだテメェ!寝言は布団の中で言ってろォ!」
エイシンディードが威嚇するように、激しく馬体を寄せる。
「……シィィ」
「完全に無視してんじゃねェェ!その金髪むしり取ってやろうか!」
フクチャンショウは一切の反応を示さず、無意識のまま恐ろしい末脚を繰り出す。
(寝ながらこんな脚を使うたぁ、ふざけた野郎だぜ!)
二頭の激しい先頭争いが、直線の中央でバチバチと火花を散らした。
一方、はるか後方の13番手。一番人気の期待を背負う馬は、深い霞の中にいた。
「あの雲、何ていう形だったっけ……。まあいいや」
11番、牡3。タガノアラリアは、ぽつんと馬群の後ろでぼんやりと空を見ていた。
「ねえ、君。そんな後ろで何してるの?もうレース終わっちゃうよ?」
隣を走る馬が、親切心と呆れが混ざった声で問いかける。
「え?ああ……君誰だっけ。まあいいや。そろそろ行くね」
「行くって、ここからどうやって……うわっ、消えた!?」
タガノアラリアの瞳から、スッと感情の色が抜け落ちた。
(道なんてどこにもないけど、僕が通ればそこが道になるから)
彼は馬群の僅かな隙間、内ラチ沿いの極小の空間へと音もなく滑り込む。
霞のように実体を捉えさせない、上がり33.1という次元の違う末脚が起動した。
だが、そのすべてを俯瞰し、誰よりも熱く燃える男が最内の絶好位に潜んでいた。
「うむ!外の競り合いも見事!後ろからの追い上げも素晴らしい気迫だ!」
ダイヤモンドノットは、内ラチ沿いの最短コースを真っ直ぐに見据える。
(ロスなく立ち回れた!あとはこの命を燃やし尽くすのみ!)
「ちょっと、そこの暑苦しいの!そこをどきなさいよ、私の進路よ!」
すぐ外側から寄せてきたトライアンフパスが、鋭い視線で牽制してくる。
「よもやよもやだ!この進路は誰にも譲らん!俺の責務を全うする!」
「うるさいわね!声がデカいのよ、少しは周りに遠慮しなさい!」
「遠慮など不要!己の限界を超えてこそ、新しい道は開けるのだ!」
ダイヤモンドノットの逞しい四肢から、爆発的な推進力が生み出される。
上がり33.6。展開と馬場を計算し尽くした、完璧なタイミングでの仕掛け。
彼は炎の呼吸の如き苛烈な足取りで、前でやり合う二頭へと襲いかかった。
「なんだとォ!?最内から来やがったか!」
エイシンディードが血走った目で、猛烈な熱気を放つ内側を睨む。
「……シィィ」
フクチャンショウの黄色い閃光もまた、限界の筋肉から火花を散らす。
「心を燃やせぇぇぇっ!!」
残り200メートル。ダイヤモンドノットが、すべてを薙ぎ払うように先頭へ躍り出る。
灼熱の風が中京の直線を吹き抜け、周囲の馬たちはその圧倒的な熱量に息を呑んだ。
(中京の坂は、己を鍛え上げるための試練だ!必ず越えてみせる!)
後方からはタガノアラリアが、霞の如きスピードで次々と馬を抜き去ってくる。
さらに大外からはトライアンフパスが、無表情のまま見えない銅貨を握りしめ迫る。
(表が出たから……抜くね)
(届かなかった……。銅貨の裏が出たからかな)
激しい追い上げも、先頭を駆け抜ける正義の炎の勢いを止めることはできなかった。
「素晴らしい走りだった!全員、よく鍛錬されている!」
ダイヤモンドノットが、一馬身と四分の一の明確な差をつけて歓喜のゴール板を駆け抜けた。
激闘を終え、熱気が静まり返りつつある芝の上。
「良馬場?清々しくてヘドが出る。もっと荒れてりゃ全員沈めてやったのに」
二着に敗れたエイシンディードは、忌々しそうに荒い息を吐きながら芝を蹴り飛ばした。
「1分19秒台か……。チッ、俺の感覚よりコンマ数秒速えんだよ」
そのすぐ横では、アタマ差で三着となったフクチャンショウがパチリと目を覚ましていた。
「ハッ!僕、生きてる!?ていうかアタマ差で二着逃したの!?」
彼はガクリと膝から崩れ落ち、芝生をバンバンと叩きながら泣き喚く。
「もうダメだ、僕の人生おしまいだぁ……痛いのは嫌だったのにぃ!」
最後方から上がり最速で四着まで追い上げたタガノアラリアは、不思議そうに首を傾げていた。
「あれ……僕、何着だったっけ。まあいいや。なんだかお腹空いたな」
そして、彼らの中央で、勝者であるダイヤモンドノットが胸を張り高らかに笑っていた。
「うむ!見事な一戦だった!この勝利、俺の誇りだ!」
春の中京の空に響き渡る熱血の笑い声とともに、一分十九秒八の激闘は完全に幕を閉じた。
それぞれの譲れない思いを胸に、彼らの長く険しい鍛錬の道は、これからも続いていく。
―― 完 ――